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ボクシング:判定圧勝!亀田興毅「母にささげる」2階級制覇



 興毅が涙の2階級制覇を果たした。ボクシングのWBC世界フライ級タイトルマッチ12回戦が29日、さいたまスーパーアリーナで行われ、挑戦者の同級3位・亀田興毅(23=亀田)が、王者内藤大助(35=宮田)を3-0判定で下した。


プロ22戦目で初の日本人との対戦を制した興毅は、07年10月に内藤に判定で敗れた次男・大毅(20=亀田)の敵を討つとともに、WBAライトフライ級に続き、日本のジム所属選手で史上7人目の2階級制覇を達成。内藤は6度目の防衛に失敗した。



亀田









 採点を聞くと、興毅は涙ながらにリング中央で突っ伏した。因縁の対決は判定で3-0の快勝だった。2階級制覇のベルトを掲げ、第一声は「オヤジ、どんなもんじゃい!」。リングサイドで目に涙をためた父・史郎氏(44)に叫ぶと「1本目はオヤジにあげた。2本目はオレを生んでくれたお母さんにささげたい」と話した。父と離婚した母。12回を経て、内藤との因縁は家族への思いに変わっていた。







 序盤から足を使い、出てくる内藤にカウンターを当てた。「持ち味を生かした。向こうは振り回してくるから打ち終わりを狙った」。右フック、左ストレート、左アッパーを的確に当てた。特にノーモーションの左ストレートは有効で、2回に顔面に決めて鼻血を出させた。内藤の鼻をコアラのように腫れ上がらせたが、受けたパンチはほとんどない。巨大なアリーナから降り注ぐ王者への大声援をむなしくさせるほど、内藤の変則ボクシングを空振りさせた。







 07年10月、反則騒動で話題を呼んだ弟・大毅(20)の敵討ちと注目された。初防衛戦の相手として内藤に挑んだ大毅は、最終12回にすくい投げなどをし、大きな批判を浴びた。ライセンスの1年間停止処分を受け、史郎氏もセコンドライセンスの無期限停止。自身も厳重戒告処分を受けた。







 「あれですべてが狂った」。亀田家のダーティーイメージは極まり、3兄弟の世界奪取ロードも修正を余儀なくされた。「試合1カ月前まで大毅の敵をとらないかん、いろいろ言ってる人間を見返さないかん」と考えていた。だが、試合直前には「勝ちたい、その気持ちでいっぱい」になり、内藤や世間への憎しみや反発は消えた。







 逆に、複雑な思いがあった。実は、幼稚園のころは内藤と同様にいじめに遭っていた。4歳から泣きながら空手を習ったのは、そのためだった。内藤とかぶる過去は、内藤を憎むことをためらわせた。「試合前はいろいろ言ったけど、素直にありがとうと言いたい」。因縁は自ら水に流した。







 弟の無念、亀田家のダーティーなイメージ、自らを追い込むビッグマウス。多くのものを背負った亀田家の長男は「どんんだけ勝ちたいか、それだけやね」と最後に話した。因縁も悪評も、勝利への一念でろ過し、家族への思いとともに勝利を手にした。2年に及んだ内藤と亀田家の因縁は、試合前に決着がついていたのかもしれない。(スポニチ



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亀田 興毅(かめだ こうき、男性、1986年11月17日 - )は、日本のプロボクサー大阪府大阪市西成区天下茶屋出身。亀田三兄弟の長男で、亀田大毅亀田和毅は実弟、亀田史郎は実父にあたる。身長166cm、体重50〜52kg。平常時は58kg。血液型B型







来歴



11歳の時、父・史郎からボクシングを教わるようになる。







大阪市立天下茶屋中学校時代の3年間は、空手とボクシングの練習を並行して行っていた。14歳の時、井岡弘樹エキシビションマッチを行った。







中学卒業後、ボクシングに専念するため高校には進学せず、社会人ボクシングで活動した。







2002年全日本実業団選手権フライ級優勝(当時15歳6か月)、全日本社会人選手権フライ級ベスト4。







2003年全日本実業団選手権フライ級優勝、第55回全日本社会人選手権フライ級優勝(16歳10か月)。







17歳の誕生日(2003年11月17日)にプロボクサーとなった。







2005年4月28日に大阪のグリーンツダジムから東京の協栄ジムへ移籍。この時、3,000万円という移籍金が支払われたと報道された[1]。







2006年8月2日に元WBA世界ミニマム級暫定王者ファン・ランダエタとの世界戦を行い、12R判定で勝利(2-1)、WBAライトフライ級チャンピオンとなった。







2006年12月20日、東京・有明コロシアムにて、ファン・ランダエタ(ベネズエラ・同級1位)との再戦が行われ、12R判定で勝利(3-0)。







2007年1月18日、協栄ジムで行った記者会見で王者返上を表明。3月24日に両国国技館で行う予定の試合はノンタイトルの10回戦で、フライ級に階級を戻して臨むことを発表した。







2007年10月11日、弟・亀田大毅の世界タイトル戦セコンドにつき、「肘でもいいから目に入れろ」と不適切な指示をしたとして日本ボクシングコミッション(JBC)より厳重戒告処分を受けた。また、10月25日に予定されていた自身の試合も「対戦相手が決まらなかった」との理由で中止となった。







なお、行われる予定であった試合については、10月26日の記者会見で以下のことが明らかになった[2]。







中止になった理由については、処分待ちの時点でリングに上がれないと亀田側が一方的に判断していただけであった。



対戦相手は決まっており、相手も試合に向けて調整を行っていたが、試合のキャンセルの連絡を入れていないなど主催者側にも不手際があった。



反則指示に関して、初めはブログで否定していた。しかし2007年10月26日、協栄ジムで行った記者会見で10月11日の亀田大毅の世界戦において反則行為を指示したことを認め、一家を代表して謝罪した。その際、協栄ジムは興毅に「3か月間の試合自粛」の処分を下したと発表した。



2009年11月29日にWBC世界フライ級王者の内藤大助に判定勝ちし、ファイティング原田柴田国明・井岡弘樹・畑山隆則戸高秀樹に次ぐ、日本のジム所属の選手で5人目の2階級制覇を達成した。
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